習志野の歴史を知ろう

習志野の歴史を切り口にさまざまな名所や活動をご紹介いたします。

第5回 東京へ、成田へ、そして世界へ 

京成電鉄

~京成電鉄の歴史~(前編)

成田山新勝寺
成田山新勝寺

習志野市内には鉄道の駅が全部で8駅ありますが、そのうち4駅(谷津・京成津田沼・京成大久保・実籾)を京成電鉄が占めています。
千葉県内を横断して上野をはじめとする東京方面、成田や千葉方面等を結び、通勤・通学、また買い物や行楽・旅行の足に、なくてはならない存在の京成電鉄。その名が示すとおり、東京から成田のお不動様(成田山新勝寺)参詣のための路線として計画され、明治42(1909)年に京成電気軌道(株)として設立されました。
京成のこれまでの歩みを2回に分けてたどりつつ、それぞれの時代を物語るエピソードの数々を紹介していきます。
まず今回は、開業から戦後にかけての歴史にスポットを当てます。

京成電鉄開業! 成田山を目指して~1910年代~

大正12年頃京成津田沼駅(南西から):現在の谷津第5号踏切付近
【習志野市教育委員会所蔵資料】
大正12年頃京成津田沼駅
(南西から):現在の谷津第5号踏切付近

大正元(1912)年11月3日、押上~伊予田(現在の江戸川)間と曲金(現在の京成高砂)~柴又間が開業し、初めて京成の列車が走りました。導入された車両は、電気機器がイギリス製、制動装置がアメリカ製。客車の床にはリノリウムを使用し、化粧鏡も備えた当時最新鋭のもの。巷の話題をさらったといわれています。
その後、京成は延伸を重ね、大正5年(1916)年、京成船橋まで開通。当初の計画では、最終目的地の成田を目指すため、次に船橋~佐倉間の工事に着手する予定でした。しかし、人口増加が著しかった千葉方面の住民の要望を受け、京成は計画の変更を決定します。大正10(1921)年、京成船橋~京成千葉(現在の千葉中央)間が開通。これに伴い、習志野市内に谷津海岸(現在の谷津)・京成津田沼の2駅が誕生しました。
また、その後行われた成田への延伸工事も、先に完成した千葉線の状況を鑑み、船橋ではなく、津田沼を分岐点とすることに変更されました。工事は順調に進みましたが、新勝寺山門前に設置を予定していた成田駅が、門前の商店街の猛反発にあい挫折。ひとまず仮駅の成田花咲までが大正15(1926)年に開通します。京成大久保・実籾の2駅が開業したのもこの年です。
現在の京成成田駅は昭和5(1930)年に完成、それに伴い成田花咲駅は廃止となりました。

沿線住民の一大レジャースポット・谷津遊園~1920年代~

読売巨人軍発祥の地の石碑
読売巨人軍発祥の地の石碑

大正10(1921)年、京成が谷津海岸駅付近に夏季のみ設けた娯楽施設「夏の楽園」が「谷津遊園」の前身です。規模を広げ、「谷津遊園」としてオープンしたのは、大正14(1925)年のこと。春は潮干狩り、夏は海水浴スポットとして賑わい、日本勧業銀行本店を移築した『楽天府』(千葉トヨペット本店として現存)、往年の映画スター・阪妻こと阪東妻三郎が設立した「阪東妻三郎プロダクション関東撮影所」等も設けられました。
昭和9(1934)年には、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリックら一流選手を揃えたアメリカ選抜野球チームを迎え撃つため、全日本チームが編成され、この地で合宿を行いました。この時のチームが母体となり、同年「東京巨人軍(後に読売巨人軍と改称)」が誕生。今も「読売巨人軍発祥の地」の碑が建っています。

谷津バラ園(平成20年4月撮影)
谷津バラ園
(平成20年4月撮影)

戦後は、東洋一と謳われたバラ園やプール等を開設、また海上コースター、日本初の宙返りコースター等アトラクションの導入にも力を入れ、関東近郊有数の遊園地として人気を博しますが、昭和40年代後半に入ると、徐々に入場者数が下降線をたどるように。そして、京成が経営参加する東京ディズニーランドの開園が迫る中、昭和57(1982)年、谷津遊園は人々に惜しまれつつ約60年に及ぶ歴史に幕を閉じました。
跡地には、住宅・整備都市公団(現在の都市再生機構)によって集合住宅群が建設されましたが、バラ園のみ習志野市が引き継ぎ、現在は「谷津バラ園」として市民の憩いの場となっています。

悲願の都心乗り入れ…そして戦後の復興~1930・40年代~

昭和23~24年頃 実籾駅改札口:現在の実籾1号踏切付近から
【習志野市教育委員会所蔵資料】
昭和23~24年頃
実籾駅改札口:現在の実籾1号踏切付近から

開業当初、東京側のターミナルとなっていた押上駅から都心部に向かうには、市電に乗り換えが必要でした。都心へのアクセスの向上が必須と考えた京成は、何度も関係各所へ働きかけた末、昭和6(1931)年に青砥~日暮里、昭和8(1933)年には日暮里~上野公園(現在の京成上野)の延伸を果たします。
住宅や工場が密集する青砥~日暮里間は、全体の約70%が高架線化。また日暮里~上野公園間は、上野公園の地下を通す必要があり、75%がトンネルとなる難工事だったうえ、私鉄としては初めて山手線内に路線が延びるという歴史に残る事業でした。
戦時中、東京大空襲等で大きな被害を受けた京成ですが、戦後復興していく様は目覚ましいものがありました。終戦間もない昭和21(1946)年、京成は津田沼~松戸に敷かれていた旧鉄道連隊の演習線の払い下げを受け、新京成電鉄(株)を設立します。昭和23(1948)年には復旧が進み、輸送力が戦前並みに回復。昭和27(1952)年にはスピードアップとラッシュアワー対策のため、通勤急行を導入、あわせて特急「開運号」の運転も始まりました。

豪華!成田山参拝列車・特急「開運号」~1950年代~

特急「開運号」は、成田山新勝寺の参拝観光列車として導入され、上野公園~京成成田間を1日3往復走りました。運転開始の翌年、昭和28(1953)年には専用車両1600形を新造。これは2両編成(当初)のロマンスカー(2人掛けの“ロマンスシート”を設置した車両)で、大手私鉄で初めてリクライニングシートを採用、また日本の鉄道車両で初めてテレビを設けるなど、豪華な仕様が注目を集めました。
当時テレビはまだ放送時間が短く、あまり活用されなかったようですが、昭和29(1954)年8月の3日間、日本テレビの協力を得て、京成千葉行きの納涼列車でプロレスの中継放送を行いました。これが大きな反響を呼び、「テレビ電車」「プロレス電車」として有名になったそうです。
特急「開運号」は、昭和48(1973)年にデビューした「スカイライナー」にその座を譲り、姿を消しましたが、今でも人気が高く、平成19(2007)年1月28日に行われたリバイバル運転では、たくさんのファンが駆けつけました。

次回は都営地下鉄・京浜急行との相互乗り入れ、成田空港開港等、大きな出来事が相次いだ高度成長期以降の京成電鉄の姿を追います。どうぞお楽しみに!



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