習志野の歴史を知ろう

習志野の歴史を切り口にさまざまな名所や活動をご紹介いたします。

第3回 美味し 懐かし 大正浪漫  ドイツ風食文化発祥の地・習志野

~ソーセージ、バームクーヘン、ワイン…ドイツの味が日本に伝わった時代~(前編)

習志野の風景 桜並木

文教都市として知られ、自然にも恵まれた良好な環境の中で、たくさんの家族がおだやかに日々の暮らしを営んでいる習志野。
実は現在の姿は、戦後入植した多くの人々が開拓に励み、街づくりの礎を築いたからこそ。
戦前の習志野には、広大な軍用地が広がっていました。
現在、春の桜見物や夏の花火や納涼祭で地域に親しまれている自衛隊の駐屯地周辺も、かつては旧日本軍の演習地だったのです。

習志野の風景 木と自転車

そして、これら軍用地の一角に「習志野俘虜(捕虜)収容所」があり、第一次世界大戦のさなかには、約1,000人のドイツ兵俘虜が5年近い歳月をここで過ごしたのでした。
収容所の食卓には、祖国ドイツの料理やワイン、ビールも登場しました。
俘虜の中には、故郷にいた頃、食のマイスター(職人)として活躍していた人々がいたのです。
彼らの手でドイツの食文化が習志野の地で再現され、日本中へと広まっていった歴史を、2回にわたって辿ります。
まず今回は、収容所での俘虜達の生活ぶりや、この地から始まったソーセージ作りのエピソードをご紹介しましょう。

日本のソーセージ、習志野に生まれる

ドイツ流ソーセージ、習志野に生まれる

習志野捕虜オーケストラ
所内で演奏をしていた習志野捕虜オーケストラ

国際条約によって俘虜の人権や待遇が守られていたとはいえ、俘虜収容所での生活は必ずしも良いものではなかったようです。
彼らの単調な俘虜生活を彩ったのは、音楽を初めとする文化活動やスポーツでした。
所内では度々演奏会が開かれ、ヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」などが演奏されていたそうです。
また、劇団が組織されたり、フットボールが行われたりと、故国を偲ぶような娯楽が楽しまれていました。
そして、土地の人々との交流も少なからずあったようです。
ドイツ兵のなかには、いわゆる職業軍人ではなく、徴兵により軍属として勤務した人が多くいました。
そのなかには技術を身につけた様々な分野のマイスターもおり、土地の人にマヨネーズや石鹸の製法を教えてくれた俘虜もいたそうです。
収容所ではソーセージ作りも行われていました。
その技法もまた、マイスターから弟子へと受け継がれるもの。
本格的なソーセージなど日本にはなかった時代、ここでのソーセージ作りは、すぐに話題となりました。

ドイツのマイスターから日本の技師へ~技の伝承~

ソーセージの技術を伝えたカール・ヤーン氏と農商務省畜産試験場の飯田技師
ソーセージの技術を伝えたカール・ヤーン氏と
農商務省畜産試験場の飯田技師(右)

当時、日本の農商務省畜産試験場では、残肉を使えて無駄がなく、国民の体力向上にもなるという考えで、ソーセージの研究が進められていたさなかでした。
試験場技師の飯田吉英は「習志野俘虜収容所でソーセージ作りが行われている」という話を聞き、製法を知ろうと訪ねました。
しかし、徒弟制度によって伝承されてきた技術は秘伝中の秘伝。「教えることはできない」と5人の職人たちはかたくなでした。
やがて、日頃から俘虜の人々に温情深かった収容所所長・西郷寅太郎の説得に折れ、職人たちは飯田技師の前で作り方を実演してくれました。
飯田技師はこのときのメモをもとに製法をマニュアル化し、全国へと広める足がかりとしました。
日本での本格的なソーセージ作りはまさに、習志野から始まったのです。

次回は、ソーセージ同様いまや日本の食文化にとけ込んでいるドイツの味覚・ワインやバウムクーヘン等を、日本に伝え広めた人々にスポットを当てます。お楽しみに!

歴史の背景

習志野俘虜収容所ができるまで

西郷所長
習志野俘虜収容所長
西郷寅太郎大佐

江戸末期の黒船来航以降、日本は欧米各国と次々に条約を結び、開国を進めていきました。
なかでもドイツは、工業技術や医療、文芸など様々な分野において、日本が新しい時代の模範とした国です。
伊藤博文が憲法草案の手本としてその体制を学び、森鴎外が陸軍の軍医として留学したのがドイツでした。
また、海を越えてはるばる日本まで赴き、この国でのワイン作りの礎を築いたのも、西洋医学をもたらしてくれたのも、ドイツの人々でした。
そんな状況が一転したのは1914年。
サラエボで起きたオーストリア皇太子暗殺事件をきっかけに勃発した、第一次世界大戦でした。
日英同盟に基づき連合国側に加わった日本は、宣戦布告の後、ドイツの植民地であった中国・青島(チンタオ)を攻略。圧倒的武力の差で勝利し、敗れたドイツ兵を俘虜として国内各地に収容しました。
当初は習志野に収容所は設けられていませんでした。が、収容所の統合や移設などの結果、1915年、東習志野4丁目・5丁目に13,000坪以上(開設当初)という広さの収容所が建設され、多くの俘虜達がこの地に移されたのです。
俘虜収容所の所長に任じられたのは、“維新の三傑”に数えられる西郷隆盛の嫡男、西郷寅太郎陸軍大佐。
隆盛の敗死後、明治天皇の計らいでドイツの士官学校に留学した経験を持つ彼は、ドイツ語に堪能な上、彼らの文化や考え方にも深い理解を持っていたと言われています。
また、その生い立ちから、戦争の悲惨さや破れた者の惨めさをも、身をもって知っていました。
俘虜達が、収容所内で自らの手でドイツの味覚を再現したり、さまざまな文化的活動をなしえた背景には、勤勉で、無為に日々を過ごすことを嫌う“ドイツ人気質”に加え、西郷所長の存在が大きかったと言えるでしょう。

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