習志野の歴史を知ろう

習志野の歴史を切り口にさまざまな名所や活動をご紹介いたします。

第4回 美味し 懐かし 大正浪漫  ドイツ風食文化発祥の地・習志野

~ソーセージ、バームクーヘン、ワイン…ドイツの味が日本に伝わった時代~(後編)

ヴェークマン博士
日本の学生を指導するカール・フォン・ヴェークマン
博士。日本のドイツ語教育と海外への日本文化紹
介に大きな貢献をした。

「習志野俘虜収容所」で暮らしたドイツ兵俘虜達によって、日本に伝えられたドイツの食文化は、前回ご紹介したソーセージだけではありません。
また、解放後も帰国せず、日本に根を下ろし、祖国の味を作り続けた人もいました。

ドイツの人々が日本に伝えた食文化

ワイン技師 ハインリッヒ・ハム

日本のワインの父といわれるハインリッヒ・ハムもまた、習志野で俘虜として暮らした1人です。明治の末に日本政府に招かれた彼は、山梨県にあるぶどう園でワイン作りの指導に当っていました。しかし、戦争の勃発に際し母国から招集され、中国・青島(チンタオ)で日本軍と戦い、俘虜となって再び日本の地を踏むという、皮肉な運命を辿ります。
彼は習志野でも「フェーダーヴァイサー」というワインを醸造し、俘虜仲間に振る舞いました。「フェーダーヴァイサー」とは、白ワインを醸造するプロセスの初期段階で味わうワイン、いわゆるヌーヴォー(新酒)のこと。“ワインが熟成するまで、何年も収容所暮らしをしたくはない”そんな思いから「フェーダーヴァイサー」を作ることにしたのでしょう。

ビアパーティー
砲艦ヤーグアル乗組員のビアパーティーの様子

第一次大戦が終わったのち、1920年に習志野俘虜収容所は完全に閉鎖され、俘虜の人々は解放されました。ハムは日本にワインを広めたいという夢の途半ばのまま、失意のうちに帰国します。
しかし、彼が技術指導を行ったワイナリーはその後もワイン作りを続け、『サントリー登美の丘ワイナリー』として、今も日本の人々がワインを親しむ場であり続けています。

ドイツ料理レストランを銀座に開店 ヘルムート・ケテル

ケテル氏
ヘルムート・ケテル氏

俘虜の中には、解放後も帰国せずに日本に留まった人もいました。第一次大戦に敗れた故国ドイツやオーストリアの国内状勢が以前と大きく変わったことも、日本に留まる要因であったようです。
習志野でソーセージ作りを伝授した5人の職人の1人とされるヘルムート・ケテルは、日本に残って日本人女性と結婚し、1927年に銀座でレストラン『ケテル』を創業しました。ケテル本人は1961年に亡くなりましたが、その後もレストランは日本におけるドイツ料理の草分けとして、また本格的なソーセージを楽しめる店として長年親しまれました。『ケテル』は惜しまれつつも、2004年に閉店しています。

菓子職人、カール・ユーハイム

今ではすっかり日本人におなじみのバウムクーヘンも、俘虜となったドイツ人が広めたもののひとつ。日本全国で店舗を展開する洋菓子店『ユーハイム』の創始者、カール・ユーハイムもまた、青島で日本軍と闘い、広島の収容所に収監されていたドイツ兵の1人でした。
もともと菓子職人であったカールは、習志野に収容されていたソーセージ職人のヨーゼフ・ヴァン・ホーテンとともに、解放後は『明治屋』に雇われ、『カフェ・ユーロップ』で腕をふるいました。『明治屋』との契約が終わったあとは独立し、エリーゼ夫人と横浜に店を出し、評判となりますが、関東大震災で焼け出されて神戸へ。店名も新たに『Juchheim's(ユーハイム)』として再出発します。しかし1945年、第二次世界大戦の終戦間際にカールは息を引き取り、その後、エリーゼはドイツへ強制送還となって『ユーハイム』の灯は消えかけました。
しかし戦後、戦争から帰還した日本人の職人たちによって、1950年神戸の地に『ユーハイム』は再興されます。1953年、エリーゼも6年ぶりに再び日本の地を踏みました。以来、バウムクーヘンは『ユーハイム』の名とともに日本中に広まり、日本人に親しまれるお菓子となったのです。

クリスマス
クリスマスの様子

今では、すっかり日本の食文化に馴染み、だれもが親しんでいる数々のドイツの味覚。その原点を顧みると、習志野のドイツ兵俘虜収容所が大きな役割を果たしていました。
ワインやソーセージを味わうとき、バウムクーヘンを頬張るとき、これらを日本に伝えてくれた大正時代のドイツ兵俘虜達の存在に、ちょっと思いを馳せてみるのはいかがでしょうか。

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http://pub.maruzen.co.jp/book_magazine/view/4621060945.html



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